京都停車場 ひっちょのステンショと呼ばれた駅

京都駅の研究内容をまとめています。

明治10年2月5日京都~神戸間開通、完成目前の初代京都駅が開業しました。
前日に雪が降り天気が心配されましたが、午前10時頃には回復し太陽の光が出ていたようです。
軒先を雛人形や垂れ幕等で飾り付け、東洞院通から烏丸通にかけての七条は見物人で混雑を極めたとの記述が残るほど、京都の街の人々にとって駅の開業と天皇陛下の行幸は喜ばしいことだったのでしょう。ただ当時の日記を読むと、京都駅の開業よりも天皇陛下が行幸することの方が京都の人々の心にとっては重要だったのではないか、そんな印象を受けます。


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開業式典後の催しで曳かれたと考えられる山車の絵図
 
開業式典には天皇陛下を始め皇族や内閣顧問(三条実美や木戸孝允ら)等が列席し、会場は「停車ノ北前ニ張出ノ仮屋根ヲ設ケ右ノ屋根ヨリ停車ノ廓…日影旗ハ数…各国の国旗ヲ挙ケ正面ニハ鉾ノ御送リヲ掛ケ中央ニ一段ヲ設ケ天井ニ金彫ノ廓アリ此取ニ一ノ椅子アリ菊ノ金紋ヲ両龍挟シ美麗卓絶ナリ是ヲ主上御座間トス…」とあるように、絢爛豪華な装飾の中、午後4時に始まった開業式典は大変盛大であったようです。
そして、翌日の2月6日に一般開業となります。
造成時には御土居を崩した際に出た土を利用し、京都で最初の洋風建築として二階建ての煉瓦造り、切石は愛宕郡一乗寺村の白川石を使用しました。煉瓦は京都府葛野郡の製造所製と考えられます。また、中央の時計は直径約2mの大きさで市中に時を知らせていたそうです。
京都府総合資料館のアーカイブでは、開業直前(『京都慕情』によると撮影時期は明治10年1月頃)の京都駅を見ることが出来ます。
京都北山アーカイブズ/矢野家写真資料 京都駅
駅前には池があり、駅舎左奥に林を確認出来ます。
余談ではありますが、この林は竹田街道ほ東側に存在した御土居ではないかと考えています。
明治9年の地図では、黒い太線で御土居が描かれているのを見ることが出来ました。
明治9年 京都区分一覧之圖
明治9年 京都区分一覧之圖 
 
現在でも話題になっている御土居(0番ホームと御土居)は明治初期に切り崩され、竹田街道より東側の御土居は明治11年に京都〜大津間敷設の為、猿寺正行院の土地が北側が接収されたのと同時期に崩されたのではと考えています。

この初代京都駅の設計者は分かっていませんが、当時の御雇い技師の英国人が設計したと考えられています。
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明治末期の初代京都駅と明治28年に開業した京都電気鉄道(提供:森安正氏)

当時の人々は京都駅のことを「ひっちょのステンショ(所)」と呼んでいました。七条(しちじょう=ひっちょ)通の駅(ステーション=ステン所)ということからですが、当時の京都駅も現在の京都駅も七条通には面していません。
現在の京都駅は塩小路通に面していますが、この塩小路通が京都駅前から本町通まで延長されたのが明治34年のことになります。京都駅開業当時、京都駅に最も近いメインの通りが七条通であった為に、このような呼び名がついたのでしょう。またステンショと呼んでいたのは、まだ英語に馴染みが薄くステーションという発音がし辛かったのではと考えています。

開業後京都駅の利用者数は一日約100人程度。その殆どが皇族や軍関係者でした。


【参考文献】
「日本国有鉄道百年史」鉄道省
「京都府行政文書」京都府立総合資料館
「鉄道と煉瓦 その歴史とデザイン」小野田滋 鹿島出版会
「京都慕情 写真と版画で綴る京の歴史」 京を語る会
「日記(個人蔵)」 著者不明
「開業90年 京都駅90年の歩み」 大阪鉄道管理局

初代京都駅が開業したのは明治10年2月5日のことです。
京都~神戸間開通式典は大変盛大なものだったと記録されていますが、そこに至るまでにかなりの時間を要しました。


まず京都~大阪間の測量開始の指令が明治4年4月4日に下り、同年6月16日に開始されました(この区間は明治3年の6月に佐藤政養により、既に経路と地形の調査が行われ「東海道筋鉄道巡覧書」で報告されています)
しかしこの指令が下り、開始されるまでの数か月間にあった出来事についてはあまり知られていません。
鉄道敷設と京都駅建設地に選ばれたのは七条通より南、東塩小路村でした。
何故「東塩小路村」だったのか、明確に記載をしている史料はありません。
仮説を立てる上での典拠としては『鉄道寮事務簿』巻2、明治4年10月に京都出張所から鉄道寮に提出された報告書に記載された「西京八条通ノ東手西東洞院間同所ステーション」の記載と『鉄道別録』巻之壱より「大阪ヨリ西京ヘノ線路ハ注意シテ撰ミタルモノト見ヘ数多ノ川々アレトモ線路ニ掛ル箇所ハ甚タ適ニ有之真実ニ心ヲ用ヒタル義ト被存候但村々ニ掛ル所ニテハ少シク改正ヲ加ヘナハ線路ヲ妨ケスシテ若干ノ家屋ヲ不取払い様相成候」があります。
また当時、鉄道は買収交渉のしやすさや建設コスト等を考え、市街地の外れに敷設されるのがセオリーでした。町屋はあれど農地が広がっている為に接収・開発しやすい、京都の街の南端だが竹田街道や烏丸通や七条通に接している為に利便性が高く、後に大津まで延長する際にこの土地が最適であった為(今後、大津までのルートを極力直線に出来るように)、等様々な条件が揃った東塩小路村に白羽の矢が立ったと考えています。
京都駅が寂れた京都の外れに設置されたと記載のある書籍が多いですが、それは適切ではありません。
そもそも京都駅の建設地となった東塩小路村は御土居の内側にありました。御土居の内部(洛中)は町であり近世の東塩小路村は洛中と同じ町屋の造りで尚且つ町並み(街道沿いに百姓の住居や店が連なる町化)も変わらないこと、尚且つ街道に面し、若山家という庄屋によって栄えていました。そのことを踏まえると、京都駅はさびれた京都の外れに建設されたわけではなく、寧ろ人の往来のある京都の町中に計画されたといえます。

さて、その東塩小路村。政府や京都府からは一切事前協議が行われず、同年5月6日に用地検分の為に英国人技師らが東洞院通の御土居へ登っていることによって発覚します。明治5年10月19日付の『京都新報』に「京都ヨリ越前敦賀エノ鉄道線測量ノタメ近日其掛リノ官負及ヒ外国人等入京アリテ東洞院塩小路村ヨリ宇治郡山科辺ノ測量ヲ始メラルル風説アリ」という記事がありました。情報としての旬は逃しているものの、東塩小路村で起こった出来事が京都中に広まっていることが伺えます。


もちろん、村は大騒ぎとなりました。江戸時代には幕府の管理下であった御土居も明治になると農業振興の為自由に開拓出来るようになっており、東塩小路村の人々ももれなく農地として開拓を始めていたからです。村の死活問題でもあり、東塩小路村は周辺村々と共に詳しい事情や開拓費の保証を京都府へ打診しますが、却下されてしまいます。
また同年6月16日、測量開始と共に京都府から鉄道の利益を府民に啓発し、測量への協力、測量杭の抜き取り・打ち込みなどの行為を厳禁する旨を通達されます。
「鉄道忌避伝説の謎」では、鉄道敷設にあたり各地で反対運動は無かったと記載されていますが、東塩小路村では反対運動を起こす間も無く京都府から先手を打たれたと考えても良いかと思います。また上記のように、住民の納得いく形で接収が行われたとは考え難いでしょう。

このように測量が開始され民家の移転や用地の接収が着々を行われてはいくものの、鉄道建設が着工したのは明治6年12月26日のことでした。
測量から着工までに時間が空いたのは、当時の政府に資金が無かったこと、また国内情勢が不安定であったからです。資金面に関しては、元々明治4年に三井八郎右衛門らによって設立された西京鉄道(のちに関西鉄道会社と改称)から建設資金の供給を受ける計画でしたが、同社が資金を集められず解散、改めて政府の資金により敷設することになった為とあります。

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明治10年5月刻成の古地図には大宮仮駅の設置されていたとされる箇所に横線が入れられている。
 
明治9年9月5日、ようやく大宮通三哲東入るに仮駅を設置し京都~大阪間の営業を開始。
公文書上では、大宮通仮ステーションと記載されました。
大宮仮駅の近く粟島堂の例月市もあってか、仮開業の時点でも周辺は店が並び、人力車や人々が行き交うなど大変な賑わいを見せていたようです。
この大宮仮駅は翌年の初代京都駅開業と共に役目を終えます。この駅に関する資料は殆ど残ってはおらず多くは分かっていません。ただ、電信局が設置されたとの記録が残っており、駅舎ないし小屋が設置された可能性があります。

【参考文献】
「御土居堀ものがたり」中村武生 京都新聞出版センター
「京都府行政文書」京都府立総合資料館
「史料 京都の歴史 第12巻 下京区」平凡社
「日本国有鉄道百年史」鉄道省
「鉄道寮事務簿」
「鉄道別録」
「鉄道忌避伝説の謎」青木栄一 吉川弘文館
「『洛中絵図』に「町屋」と記された洛中農村の百姓居宅と, 江戸時代の同地史料にみる町屋の意味」丸山俊明
「洛中農村の居住形態に関する復原的考察 下山城京廻東塩小路村における「構」集落の空間構造」伊藤裕久

【参考資料】 
「京都新報 明治5年10月19日付」
「新京都細絵図」

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