京都停車場 ひっちょのステンショと呼ばれた駅

京都駅の研究内容をまとめています。

京都駅の2番〜7番ホーム西側(神戸方面)は、大正15年(昭和元年、1926年)から昭和2年(1927年)にかけて増築されています。
『週刊 JR全駅・全車両基地』によると、写真に見られる4番・5番ホームの木造上家も大正時代に建設されたとあります。
 
DSC00829
4番・5番ホームの様子
全体的に眺めると木造でパージボード(軒飾り)もあり、どことなくレトロな雰囲気を醸し出していますが、本当にそうと言い切れるのでしょうか。
今回は、二年程前から疑問に感じていたこの4番・5番ホームの件についてまとめました。


まずは5番ホーム側の古レール柱に刻印されている年代を確認してみます。
IMG_20151012_210520
5番ホーム側の柱に唯一使用されている古レール
レールは丈夫な為、明治時代から貴重な材料として駅の上家や柵等に再利用されることが非常に多く、京都駅も例外ではありません。また、レールの側面には製造年月や重さ(kg)等の情報が刻印されている為、謎を解く鍵にもなることがあります。
さて、上記写真の古レールは「官営八幡製鉄所で1932年(昭和7年)8月に製造された30kgのレール」と刻印されていました(写真では製造年が1982と見えますが、指でなぞると1932と分かります)
古レールだけを見れば昭和7年以降に増築された上家と推測出来ますが、このホームで確認出来る古レールの柱はこの一本(レール二本を溶接し一本の柱に加工したもの)のみの為、上家の修復の際に使用されたとも考えられます。

次に同ホームに設置されている構内電柱を確認してみました。
DSC_0007
構内電柱が木造屋根を貫通している
表示を確認してみると「1937.3」とありますので、1937年(昭和12年)3月に設置されたもののようです(京都駅〜吹田駅間の電化・昭和12年)
この構内電柱は屋根を貫いていますが、後年にわざわざ屋根に手を加えて設置するのに労力が掛かりそうです。
しかし、これだけでは「上家の増築年代が大正時代では無い」という決定打にはなりません。
ただ、本当に大正時代に増築されたものなのだろうか、という疑問も残ります。


そこで京都駅に関する図面を探していたところ、先日、証拠となる青写真をようやく発見しました。
_20170910_123732
『第3番乗降場上家増築その他工事(全体図)』
全体的に見ても、疑惑の4番・5番ホームのものと見て間違いないようです。木造上家についても記載がありました。この青写真によると、増築の為の設計がなされたのは、1956年(昭和31年)3月。
週刊誌に記述された年代と全く違います。
違和感を感じていた構内電柱は、4番・5番ホームの上家が増築される以前に設置されたのです。
IMG_20151012_234536
4番・5番ホームの上家増築に関する青写真(一部抜粋)
上家の柱に30kg古レールを使用する、との指示が記載された設計図も確認出来ました。
古レールを使用した理由は確認出来ませんでしたが、他の柱よりも深い場所から設置する必要があったようです。

4番・5番ホーム上家が増築されたのは大正時代ではなかったことが、発見された設計図によって証明されました。



京都駅について書かれた書籍や雑誌は多くありません。しかも、手に取りやすいものの中には記憶が曖昧のまま書かれていたり、確実な取材を行なっていないものもあります。
京都駅に限ったことではありませんが、情報を鵜呑みにせず、少しでも疑問に感じたらご自身で調べてみることをお勧めします。




【参考文献】
『週刊 JR全駅・全車両基地 06 京都駅・城崎温泉駅・若狭本郷駅ほか/梅小路機関区ほか』朝日新聞出版
『京都駅改良工事の内 第3乗降場上家その他工事』日本国有鉄道大阪工事事務所
『鉄道ピクトリアル No.330』鉄道図書刊行会
『神戸鉄道局年報』神戸鉄道局








 

占領期真っ只中の昭和25年(1950年)11月18日に二代目駅舎が焼失。仮駅舎建設を指示した佐野正一は、すぐさま三代目京都駅の設計に取り掛かることとなりました。


設計を前に佐野正一は、駅と駅周辺の状況、駅機能の将来を計る為の徹底した調査を行います。
その中で佐野正一は「京都駅と東海道線線路群は南への都市発展に立ちはだかる壁のような状況が見て取れた」という言葉を残しています。
三代目京都駅建設中
建設中の京都駅
京都駅が京都の都市計画へ及ぼす影響は、明治29年には既に問題視されていました。
都市計画に支障無い鉄道計画とするには高架化とするのが解決策ですが、国鉄自身、計画の用意の無い状況(京都市からの費用負担等)では急場の復興に織り込むことは不可能でした。このこともあり三代目駅舎は将来、高架化する際に支障が出無い配慮(床面を30㎝上げる等)の元で計画が進められてゆきました。

昭和26年(1951年)3月27日に駅舎新築工事着工修祓式が挙行されると、翌年2月11日には新駅の一部使用を開始します。
昭和27年(1952年)5月25日、京都R.T.O返還。
数日後の昭和27年(1952年)5月27日、いよいよ三代目京都駅が竣工。激しい雨の日のことでした。

三代目京都駅 東側
三代目駅舎の様子
二階建て、一部三階及び八階建て塔屋という今までに無いデザイン。外装はタイルと一部黒色花崗石とシンプルなものとなりました。
ノイトラ流(アメリカの建築家ノイトラによる、
白い無装飾な直角の箱とでも表現すべき欧米のモダニズムを受け継いだ作風) のあまり装飾性の無い、単純で合理的な空間配列や天井の高さの変化や柱列のデザインが当時としては新鮮であったようです。
三代目京都駅 国鉄電車区間窓口
窓口前に柱の列
貴賓室は東寄りの烏丸通に寄せ(塔一階が貴賓室出入口。写真を見ると塔が東に片寄せされているのが分かる)、中央に乗車コンコースを西寄りに降車コンコース、両コンコース中間に待合室・出札窓口・化粧室をゆったりと配置した平面計画とし、照明にはまだ高価であった蛍光灯を多く使用しました。
駅舎自体は大変シンプルな設計ですが、唯一貴賓室の壁には漆画がはめ込まれ、これに合わせて当時としては最高級の家具と内装を施工したと言われています。(後々、開業100周年記念の陶画が中央改札口上部に設置されました。)
現在、貴賓室で使用されていたソファと衝立は京都鉄道博物館に展示されおり、一般の方でも見学することが可能です。

BE2C329C-915E-4872-BF56-5B92BAE7DDFB
京都鉄道博物館に展示されているソファと衝立
京都鉄道博物館の展示の仕方は、ソファを見せる為に敢えて衝立を後ろに持ってきていますが、本来は陛下のお姿を隠す為ソファの前にありました。
B39A9A8F-69AE-4C08-8A3E-6265B40817E3
 奥が展示されているソファ、左側に衝立を見ることが出来る


三代目京都駅 改札口
改札口の様子。実にシンプルな空間と天井の高さが印象的だ
特に京都の人々の記憶に強く残っているのは、あの八階建ての塔でしょう。烏丸通に面していた為、四条辺りからも京都駅を見付けることが出来ました。
この八階建ての塔、実は佐野正一オリジナルではありません。 
当時の国鉄施設局長の立花氏から手渡されたスケッチを元に、佐野正一が アレンジしたものです。
また、周りの建築家からの反応はイマイチであったそうです。佐野正一も自身がまだ未熟と感じていたようで、構造的にも自信がありませんでした。コンクリートの打ち方も知らないことを耐震構造の権威に咎められた際には「その時には壊れてもいい」と若さゆえの開き直りもあったようです。
夜の三代目京都駅(モノクロ)
駅舎の窓から物産店の様子が僅かに伺える
その他にも問題が浮上します。駅本屋二階の西側に旅客業務や土産物屋を集中させる為にスペースを設け、従来の民衆駅からの転換を計りましたが、
時代も時代だけに借り手が無かったのです。
今こそはあって当たり前の土産物屋や物産店ですが、当時は何とかスペースを埋める為に京都市に観光物産店を出店してもらい営業開始日(二階部分の営業開始日は10月10日)を迎えた、そんな状況でした。それ故に、当初の営業予想は悲観的であったようですが、観光シーズンと重なったことで2倍以上の営業成績を出したそうです。

決して順風満帆なスタートとはいかなかったものの、三代目京都駅は戦後の駅舎として新しい時代を歩んでゆくこととなります。


【参考文献】
『聞き書き 関西の建築 古き良き時代のサムライたち』佐野正一 石田潤一郎
『建築家三代 安井建築設計事務所 継承と発展』佐野正一
『京都駅物語 駅と鉄道130年のあゆみ』荒川清彦
『京都駅開業100年 市民とあゆんで一世紀』京都駅 京都駅開業100年記念事業推進協議会
『開業90周年 京都駅90年の歩み』大阪鉄道管理局
京都における鉄道線路に対する認識の変遷 ー二代目京都駅を境としてー』高島謙一




このページのトップヘ