二代目京都駅は、綿業会館や大ビル(いずれも大阪)で知られる渡辺節が設計しました。     

渡辺節は明治17年11月3日、東京で生まれました。『節』という名前は、明治天皇の誕生日と同じことから付けられたそうです(女性のような名前が嫌で、高校時代には勝手に改名をしている)  父親の仕事の都合上、青森で小中学校を卒業し、仙台の高等学校で学んでいます。その後、東京帝国大学工科大学建築学科に進み、明治41年に卒業 。一旦は韓国政府度支部建築所に就職し、明治45年に鉄道院西部鉄道管理局へ移り大阪駅の改修工事に携わっていました。明治天皇が崩御し大正天皇の御大典が行われるにあたって京都駅の駅舎を新築することとなりましたが、当時の鉄道院は人材が不足していた為に渡辺節が抜擢されました。弱冠、28歳の時のことです。   

鉄道院からの条件は、木造・予算30万円(現在の約3000万円)・工期1年・耐久年数10年(いずれ高架化予定の為)。 本人は大きな仕事を任されたと大いに張り切り、神戸から京都までの列車の中で設計図を広げては局長に計画を語っていたそうです。しかし、彼の思いとは裏腹に鉄道院はその設計に反対、その為に工期が3か月も消費されてしまいました。
さて、彼の設計した二代目京都駅とはどのようなものだったのでしょうか。年に数回しか利用しない皇族より一般利用客の利便性を考え旅客車寄を烏丸通の正面に配し、それを中心にして旅客駅本屋を設計し、本屋の西側に貴賓用車寄や部屋を配置しました。当時は駅舎中央に貴賓用玄関を設け、それを中心にして旅客用乗降口を設計していくのが一般的でした(例としては同時期に竣工した東京駅がそうである)  が、結局は彼の計画案が通り、工事は進められていきます。   
二代目京都駅カラー

メインは檜、窓枠や天井等は桜の木造にモルタルを塗り、華麗で伸びやかなルネッサンス様式の駅舎に仕上げました。内装も大変凝った造りになっており、特に貴賓用ロビーはドーム状でローマ風の円柱、採光に関 しても計算されていました。照明機器は各部屋・場所によってデザインが異なり、中には約2メートルにもなるシャンデリア、設計図だけでも27種類あります。当時工事を担当した大林組は、狂いやすい桜ではなく他 の木材に変更して欲しいと願い出ましたが、彼は頑として受け入れなかったようです。 後年の大林組が木材の乾燥や造作技術に精通していくのは二代目京都駅に携わった為だと当時を振り返っています。このように限られた工期の中で完成した二代目京都駅。当時の大手新聞でも絶賛される程の出来栄えでした。
しかし、彼の心に追い打ちを掛けた出来事が竣工後に起こりました。宮内省から工事関係者に下賜された絹が自分よりも名ばかりの係長に多く渡されたのです。  
結果、自分はここで働くべきではないと独立を決意します。 鉄道院は色々な条件を出して彼を引き留めようとしましたが、元々鉄道院自体に建築家を迎え入れる体制になかっただけに、失望した彼を留めることは出来ませんでした(公的には病気の為、退官となっている)
二代目京都駅が焼失し三代目京都駅を造設するにあたって設計を担当した佐野正一が渡辺節に挨拶にゆくと、彼に「君、京都駅をやったら三年後に(国鉄を)やめることになるぞ」、「おれがそうだった。京都駅が出来たら全部済んだような気になるぞ」と言っていたそうです。果たして渡辺節の言葉は現実となったのでしょうか。



【参考文献】
「建築家 渡辺節」 大阪建築士会渡辺節追悼誌刊実行委員
「聞き書き 関西の建築 古き良き時代のサムライたち」佐野正一、石田潤一郎
 「特別慰聾金給與ノ件 鉄道院技師 渡辺節」国立公文書館デジタルアーカイブ