戦後70年余となりますが、当時を記憶している方々も少なくなってきました。
京都で言う先の大戦は応仁の乱だと揶揄されがちですが、他県と同様に空襲被害もあり、占領期も経験しているのです。

まず、戦時下の京都駅周辺では市街同様建物疎開という名の破壊消防が行われています。
昭和20年(1945年)4月13日の時点で既に建物疎開が完了していましたが、続く7月27日に鉄道輸送確保を目的とした空き地が必要とされ、東海道線、山陰線、奈良線沿線を中心に疎開対象は2361戸(内、京都駅周辺は京都駅〜稲荷駅間の南50m)に及びました。
京都駅周辺の建物疎開では御池通付近に住んでいた旧制中学校の1年、2年生の生徒が動員されました。大工等が対象の建物の柱に切り込みを入れると縄を括り付け、それらを学生が引っ張り倒壊させたといいます。

また京都の人々が預かり知れぬ場所で標的とされていました。
京都駅に隣接する梅小路機関庫が原子爆弾の投下目標地点の一つに指定されていたのです。
「京都は人口100万人の都市産業地域であり、他の地域が空襲により破壊されるにつれ多くの人口と産業が京都へ移動しつつある。また、日本の旧首都であり日本の知的中心であり、知識人も多く人類がこれまで経験したこともない破壊力を持つ兵器(原爆)の重要性を理解出来るであろう」
その他にも京都は盆地という地形により爆風が効果的に威力を発揮し、特に梅小路へ投下となると上空から目標にしやすく、東西南北への鉄道網、西院方面の軍事工場、十六師団にも被害を与えられるといった効果が期待出来ました。
米軍陸軍将校グローブスは原爆の未知の威力を詳しく調べる為には無傷の都市が必要とし、投下の候補地として通常爆撃の禁止を徹底させようとしていました。それに対して陸軍長官のスティムソンは「アメリカが京都を爆撃、原爆投下することは日本人に反感を抱かせ占領対策の円滑な遂行を妨げ、終戦後に寧ろロシアに同調してしまうだろう」と、グローブスと正反対の考でありましたが爆撃禁止という点では意見が一致していたと確認されています。
結果的に原爆の投下は広島・長崎となり、戦後長く「アメリカが原爆を京都へ投下しなかったのは重要な文化財があったからだ」と語り継がれていたものはアメリカが日本の心理を突いた占領対策でした。

昭和20年(1945年)8月15日、日本がポツダム宣言を受諾し太平洋戦争は終結。

9月18日、運輸省京都渉外事務局が京都駅に設置され進駐軍関係輸送の為に事務体制が整えられました。25日の午前9時から26日の午後9時まで京都駅から市内の各駐留地に通づる道路を通行禁止にし、この措置は27日の午後9時まで一部規制緩和されながら続いたそうです。

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 京都駅前を出発する進駐軍(京都新聞)
 
そして9月28日、京都駅内にもR.T.O(RAILWAY TRANSPORTION OFFICE)と便殿(貴賓室)には進駐軍ライス機関(後の地区司令部)が、便殿の横には進駐軍の武器弾薬室が設置されます。その他、駅前ではステーションホテル京都や関電ビル…と、京都市内の建築物は次々に接収されていきました。
R.T.Oが設置されるということは、京都が進駐軍にとっていかに重要な拠点であったかが伺えます。

二代目京都駅(占領期)
祖母の遺品から見付かった絵葉書

上記の絵葉書は祖母の遺品から見付かりました。
写真の様子から昭和24年頃撮影されたもので、駅前広場中央にある大きな看板は進駐軍が設置した軍団戦歴標です。

二代目京都駅(占領期初期?)
米軍向け土産写真

終戦直後、京都駅をはじめとする国鉄は日本各地に進駐軍が配置される為の輸送や貨物による物資輸送等に奔走します。駅前には浮浪者や靴磨きの孤児、街娼の姿も見られ、昭和24(1949年)年7月4日にはシベリアからの復員兵が京都駅前で事件を起こし、朝鮮戦争による軍事輸送、昭和25年(1950年)11月18日には二代目京都駅の焼失と、例外無く怒涛の占領期を送りました。

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駅前に設置された引揚者の為の休憩所が写された、進駐軍向けの土産写真

海外から舞鶴港へ引き揚げてきた人々が、自身の郷へ帰る為に西舞鶴駅からまず向かうターミナルが京都駅でした。
体臭と汚れの混ざった異臭が京都駅のプラットホームに漂い、引揚列車の到着がよく分かったそうです。
『米軍医が見た占領下京都の600日』では京都駅前に設置された海外引揚者休憩所にまつわる回想が記載されています。「最終の引揚列車は深夜0時二十四分に(京都駅)に着く。ここでおりてつぎの朝四時五十二分発の一番列車に乗る客は駅前のバラックの休憩所へ案内して仮眠をすすめた。そしてじぶんたち(京都学生同盟)もそこの板の間で眠ってしまうのだった…」「1947年12月、京都駅前の休憩所は寒くてもう泊まれなかった。だから終列車からおりてきた乗客は、駅のちかくの東本願寺の宿泊所へ案内した」
時には帰郷半ばにして列車内で亡くなられた方もいたそうです。

京都駅では闇屋が争って汽車の席を取り、市電には屈強な男が女性や子供を押し退け乗車する(米軍医が見た占領下京都600日、より)空き地等にバラックが建てられ、それすら叶わない人達は浮浪者として京都駅前等で生活を強いられる。孤児となった子供達の多くは京都駅で寝泊まりしながら靴磨きや闇屋の手伝い、更にはスリ等を行うことによって生きながらえていく。ごうごうと過ぎ行く列車、その窓や豪華なコンパートメントから見下す蔑むような視線…日本政府や行政はこの問題を根本的に解決することなく「観光都市京都の駅前美化」の掛け声の下で浮浪者や浮浪児の狩り込みと施設への強制収容、バラック集落強制撤去に手段を選ばず、その一方では米軍兵士の為に至れり尽くせりの住宅建設を進めていく(『米軍基地下の京都1945年〜1958年』より)

昭和27年(1952年)5月25日 、京都R.T.O返還。数日後の27日に三代目京都駅が竣工します。
講和條約が締結されたことにより、駅前の軍団戦歴標も撤去されることとなりました。
『京都駅開業100年 市民とあゆんで一世紀』によると「第一軍団も京都から引き揚げることが決定した時、撤去するか改修して使用するか申し入れがあった。用途も無かったので断ると数日後に作業を始め、コンクリート台に建てられた鉄柱が残らないよう綺麗に撤去していった」とあります。

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 三代目京都駅と駅前広場
上記写真で、撤去された跡を見ることが出来ました。駅前広場の緑地帯に見られる、白い二本のラインのうち南側(京都駅側)がそれにあたります。
この緑地帯は後々、京都市営地下鉄烏丸線工事の為に一度消失することとなります。
現在、同じ場所に緑地帯はあるものの、占領期の痕跡はすっかり消え去ってしまいました。
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観光都市京都の玄関、京都駅。
京都駅が見てきた歴史は決して華やかなものばかりではありません。暗い時代も例外なく反映される観測点でもあるのです。

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【参考文献】 
「京都駅物語 駅と鉄道130年のあゆみ」 荒川清彦
「京都駅のあゆみ 出逢い重ねて-京都駅110周年」日本国有鉄道 京都駅
「空からみた京都」 岩波写真文庫
「開業90周年 京都駅90年の歩み」大阪鉄道管理局
「京都駅開業100年 市民とあゆんで一世紀」京都駅開業100年記念事業推進協議会
「京都・奈良はなぜ空襲を免れたか」吉田守男
「京都に原爆を投下せよ ウォーナー伝説の真実」吉田守男
「原爆は京都に落ちるはずだった」吉田守男
「街娼 実態とその手記」竹中勝男・住谷悦治編
「米軍医が見た占領下京都の600日」二至村
「米軍基地下の京都 1945年〜1958年」大内照雄
「建物疎開と都市防空「非戦災都市」京都の戦中・戦後」川口朋子
「古都の占領 生活史からみる京都 1945−1952」西川祐子
「占領下の京都」立命館大学産業社会部 鈴木良ゼミナール
「隠された空襲と原爆」小林啓治 鈴木哲也
「原爆投下と京都の文化財 資料集」立命館大学産業社会部 鈴木良ゼミナール
「原爆投下目標だった京都 1945年(昭和20年)の記録」山嵜泰正