昭和25年11月18日の火災により焼失した二代目京都駅(『京都駅の焼失』を参照)ですが、実は過去に何度か火災の危機に直面していました。


今回は京都新聞の前身である京都日出新聞の大正時代の記事から、京都駅の火事を図を交えて紹介していきます。


● 大正10年(1921年)6月20日夕刊
『京都駅深夜の怪火一、二等待合室北方階段裏より黒煙渦巻き上る椿事 幸い20分後鎮火損害賓少』
20日午前2時50分、京都駅構内下り1、2等待合室北方の階上都ホテル出張所に至る階段裏より異様の煙が噴出しているのを、駅員が発見し現場に駆けつけた。宿直員らが消火器で消火活動をし大事に至らず同3時10分鎮火した。取り調べによると、同待合室掃除夫が終電発車後に、待合室を掃除した紙屑に塵埃類を階段下に集めておいたが、中に火の気の残った煙草の吸殻が燃え出し、近くに立ててあった藁のほうきに燃え移ったものらしい。旅客列車の出入りが無かったので混雑を免れた。

記事によると「一、二等待合室北方階段裏」とあります。平面図に照らし合わせてみると、場所は駅舎一階東側。赤い矢印で示した階段の裏側が該当する場所と考えられます。
IMG_20150112_172518
二代目京都駅本屋平面図一階

駅舎の外側から見た場合、場所は赤い矢印の辺りと考えられます。
IMG_20150112_174835
提供:森安正氏


●大正13年(1924年)4月22日夕刊
『京都駅の構内で客車燃える~煙草の吸殻らしき火を残し~ ボギー車二両焼く』
21日午後8時40分、柘植を発した1501号旅客列車が約20分間遅れて京都駅に到着し南洗い場傍の第七番留置線に入れておいたところ、午後11時頃、5両編成の中央に連結してあった二等ボギー車か ら出火。後部の三等ボギー車にも燃え移らんとしているところを野口改札係が発見し夜間勤務中の駅員の大半がかけつけ消防に努めたが、第七番線付近には多くの客車を留置してあり類焼の恐れがあり、また猛火を上げるニ両車の前後には三両の客車が連結していたため、乗務員らは猛火を浴びつつ切り離し類焼を防いだ。下消防署からはポンプ車3台がかけつけたが線路に阻まれて進退ままならず南側の九条に迂回し、そこからホースを向けて午後11時25分に鎮火した。原因は調査中だが、焼け跡から推察して乗客が窓ガラスの間に入れた煙草の吸殻から発火したものと思われる。被害は1万円程度。

「南洗い場傍の第七番留置線」「南側の九条に迂回」とあるので、現在でも存在する7番線のことではなさそうです。また、平面図を確認すると構内南側に留置線が9線見られ、赤い矢印部分に「7」と記載があることから、火災が起こった留置線はこの場所と考えられます。
IMG_20150112_184903
京都停車場平面図(図の下が北側となる)
 
当時の京都駅構内の様子が分かる絵葉書が残されていました。絵葉書の左端、開けた場所が留置線のある部分です。
二代目京都駅駅構内
京都駅構内を南東から撮影した絵葉書

 この火災の翌日、朝刊には続報が記載されていました。

 ●大正13年(1924年)4月23日朝刊
『放火魔の所為か~客車焼失事件』
最近各所で謎の出火が続いている。21日夜3時40分にも菓子製造業吉田安五郎方が放火された。21日夜に京都駅でボギー車が焼失した事件も放火と見られることからに2〜3人組の放火魔が夜間市内を横行し、無差別に放火しているものとみて調査中である。


「火の気の残った煙草の吸殻が…」「乗客が窓ガラスの間に入れた煙草の吸殻から…」とあるように、大正時代の日本人のマナーは正直良くなかったようです。
時代と共に忘れ去られてしまった京都駅の危機。もしかしたら昭和25年以前に焼失していたかもしれない、そんな事件が新聞記事には残されていました。
 
 

【参考文献】
「大正期京都歴史災害データベース」京都歴史災害史料研究会
「日本国有鉄道百年史」鉄道省
「京都停車場改良工事計画圖」西部鉄道管理局 
「京都日出新聞」