京都停車場 ひっちょのステンショと呼ばれた駅

京都駅の研究内容をまとめています。

タグ:昭和

明治期〜昭和初期の絵葉書や古写真を見てみると思わぬものが写っていたり、興味深いことが分かることがあります。
そこで今回は、絵葉書や古写真を幾つか記載していきたいと思います。


初代京都駅前
初代京都駅を東側から撮影した絵葉書
絵葉書中央の架線柱に京都電気鉄道の「ふしみいなりゆき」と書かれた看板が掲げられている所をみると、東洞院通(竹田街道)の伏見行き停車場が廃止になり高倉跨線橋が開通した明治34年以降と考えられます。また、京都駅駅舎と向かい合うように建っている煉瓦建築物は警察署です。
烏丸通から望む初代京都駅
京都駅と向かい合うように建っている煉瓦造の建物が五条警察署塩小路分署


初代京都駅西洋料理入り(森さん蔵)
レストランの看板を掲げた初代京都駅(提供:生田誠氏)
明治37年頃、京都駅二階西側に都ホテルの西洋料理出張店が開業しました。恐らく、宣伝も込めて西側から撮影されたものでしょう。
また面白いのは、駅前に切符売り場(三角屋根の小屋)が二種類見られることです。
一つは鉄道院臨時出張所。絵葉書中央部分左寄りと右側に確認出来ます。駅前の混雑する様子からして、繁忙期に設置していたものと考えられます。それだけ明治末期の京都駅は利用客の増加に対応しきれず、手狭となっていたのでしょう。京都府立総合資料館には、ほぼ同じアングルから撮影した写真(京の記憶アーカイブ)を見ることが出来ます。
もう一つは京都電気鉄道の切符売り場です。中央の鉄道院臨時出張所の左隣、屋根がやや低い小屋が切符売り場になります。


京都三大事業(森さん蔵)
烏丸通から撮影した絵葉書(提供:森安正氏)
「京都三大事業竣工」と印字されていることから、明治45年6月頃に撮影されたものでしょう。祝賀アーチから烏丸通を発着する市電も見られます。
京都三大事業とは、明治末期から大正初年に掛けて京都市で行われた「第二琵琶湖疏水(第二疏水)開削」、「上水道整備」、「道路拡築及び市電敷設」の3つを指す都市基盤整備事業のことを言います。明治45年6月に市電運転も一部で開始されたこともあり、6月15日に三大事業竣工の祝典が行われました。
この絵葉書は祝賀アーチをメインとしていますが、それを少し右に寄せ、意図的に京都駅を左奥に入れています。
京都駅がこれだけしっかりと見えるのは、当時周辺には駅舎より高い建築物が少なかったことや拡幅事業で接収されてしまったということが分かります。


二代目京都駅駅構内2 初代京都駅
二代目京都駅と初代京都駅が同時に写っている貴重な絵葉書
非常に分かりにくいですが、絵葉書右端に煉瓦造の初代京都駅を確認出来ます。
構内に蒸気機関車や貨物が見られることから、東海道線が現在の軌道で運用を始めた大正3年(1914年)8月15日以降から初代京都駅が解体される僅かな
間に撮影された絵葉書でしょう。
京都構内をメインにしていますが、右端ギリギリに初代京都駅を入れたのは意図的だと考えられます。
二代目京都駅と初代京都駅が一枚のハガキに収められているのは、殆ど例がありません。


旧東海道線撤去作業中
二代目京都駅の絵葉書としてはよく見られる構図だが
二代目京都駅竣工時の絵葉書では駅前が広々としている写真が一般的によく見られますが、上記のものは少し異なるようです。
駅舎手前に散在しているものは、旧東海道線の撤去作業で出た廃材と考えられます。
似たアングルが多い中でもちょっとした景色の変化に気付くと、絵葉書は更に面白くなります。


二代目京都駅山陰線ホーム
二代目京都駅竣工当時の山陰線ホーム
日差しの強い中撮影したのでしょう、ホームの輪郭が分かりにくくなっていますが、現在で言う30番線、西側へ向かって撮影されたもので、切り欠き式ホームも確認出来ます。現在と違いホーム の数は一本でした。
改良工事計画の際、京都駅構内の広大さに構内作業が複雑になり理想的な配線を行うのが困難だった為、主要であった東海道線の配線を重視ししたことにより山陰線はこの様な形式となりました。改良工事紀要に「往々局部ニ於イテ多少ノ犠牲ヲ忍バザルヲ得ザリシハ遺憾ナリキ」との記述があることから、工事期間等の制約の中で止む終えない選択であったことが伺えます。
絵葉書手前、リベット打ちトラス構造のホーム上家は現在、京都鉄道博物館で復元展示されています。
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京都鉄道博物館に復元展示されている旧1番(現0番)ホーム


空ヨリ見タ京都駅
昭和初期に空撮した二代目京都駅と駅周辺の絵葉書
空撮写真は地上よりも様々な情報を見ることが出来る為、大変興味深い資料の一つです。
いつも利用している京都駅ですが空から眺めると、駅前広場から構内を含めその広大さがしっかりと確認出来、日本の一大ターミナルと言われるのも頷けます。
駅前広場の右前方には京都ステーションホテル(京都センチュリーホテルの前身)、南側には日本庭園、ステーションホテルの左隣に見られる植え込みは初代京都駅駅舎があった場所になります。また、駅前広場正面には京都市電のループ線、駅より左前方に四角く区分けされた空き地は旧東海道線の跡地に当たります。駅前の塩小路通が西洞院通以西ではまだ拡幅されていないのもよく分かる一枚です。



【参考文献】
『京の民俗資料 京の町並み 写真で綴る百年』京を語る会/田中泰彦
『京都停車場改良工事紀要』西部鉄道管理局

【参考】
『京の民俗資料 京の町並み 写真で綴る百年』京を語る会/田中泰彦
『京の記憶アーカイブ』京都府立総合資料館
『京都鉄道博物館』
『京都センチュリーホテル』





























 

占領期真っ只中の昭和25年(1950年)11月18日に二代目駅舎が焼失。仮駅舎建設を指示した佐野正一は、すぐさま三代目京都駅の設計に取り掛かることとなりました。


設計を前に佐野正一は、駅と駅周辺の状況、駅機能の将来を計る為の徹底した調査を行います。
その中で佐野正一は「京都駅と東海道線線路群は南への都市発展に立ちはだかる壁のような状況が見て取れた」という言葉を残しています。
三代目京都駅建設中
建設中の京都駅
京都駅が京都の都市計画へ及ぼす影響は、明治29年には既に問題視されていました。
都市計画に支障無い鉄道計画とするには高架化とするのが解決策ですが、国鉄自身、計画の用意の無い状況(京都市からの費用負担等)では急場の復興に織り込むことは不可能でした。このこともあり三代目駅舎は将来、高架化する際に支障が出無い配慮(床面を30㎝上げる等)の元で計画が進められてゆきました。

昭和26年(1951年)3月27日に駅舎新築工事着工修祓式が挙行されると、翌年2月11日には新駅の一部使用を開始します。
昭和27年(1952年)5月25日、京都R.T.O返還。
数日後の昭和27年(1952年)5月27日、いよいよ三代目京都駅が竣工。激しい雨の日のことでした。

三代目京都駅 東側
三代目駅舎の様子
二階建て、一部三階及び八階建て塔屋という今までに無いデザイン。外装はタイルと一部黒色花崗石とシンプルなものとなりました。
ノイトラ流(アメリカの建築家ノイトラによる、
白い無装飾な直角の箱とでも表現すべき欧米のモダニズムを受け継いだ作風) のあまり装飾性の無い、単純で合理的な空間配列や天井の高さの変化や柱列のデザインが当時としては新鮮であったようです。
三代目京都駅 国鉄電車区間窓口
窓口前に柱の列
貴賓室は東寄りの烏丸通に寄せ(塔一階が貴賓室出入口。写真を見ると塔が東に片寄せされているのが分かる)、中央に乗車コンコースを西寄りに降車コンコース、両コンコース中間に待合室・出札窓口・化粧室をゆったりと配置した平面計画とし、照明にはまだ高価であった蛍光灯を多く使用しました。
駅舎自体は大変シンプルな設計ですが、唯一貴賓室の壁には漆画がはめ込まれ、これに合わせて当時としては最高級の家具と内装を施工したと言われています。(後々、開業100周年記念の陶画が中央改札口上部に設置されました。)
現在、貴賓室で使用されていたソファと衝立は京都鉄道博物館に展示されおり、一般の方でも見学することが可能です。

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京都鉄道博物館に展示されているソファと衝立
京都鉄道博物館の展示の仕方は、ソファを見せる為に敢えて衝立を後ろに持ってきていますが、本来は陛下のお姿を隠す為ソファの前にありました。
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 奥が展示されているソファ、左側に衝立を見ることが出来る


三代目京都駅 改札口
改札口の様子。実にシンプルな空間と天井の高さが印象的だ
特に京都の人々の記憶に強く残っているのは、あの八階建ての塔でしょう。烏丸通に面していた為、四条辺りからも京都駅を見付けることが出来ました。
この八階建ての塔、実は佐野正一オリジナルではありません。 
当時の国鉄施設局長の立花氏から手渡されたスケッチを元に、佐野正一が アレンジしたものです。
また、周りの建築家からの反応はイマイチであったそうです。佐野正一も自身がまだ未熟と感じていたようで、構造的にも自信がありませんでした。コンクリートの打ち方も知らないことを耐震構造の権威に咎められた際には「その時には壊れてもいい」と若さゆえの開き直りもあったようです。
夜の三代目京都駅(モノクロ)
駅舎の窓から物産店の様子が僅かに伺える
その他にも問題が浮上します。駅本屋二階の西側に旅客業務や土産物屋を集中させる為にスペースを設け、従来の民衆駅からの転換を計りましたが、
時代も時代だけに借り手が無かったのです。
今こそはあって当たり前の土産物屋や物産店ですが、当時は何とかスペースを埋める為に京都市に観光物産店を出店してもらい営業開始日(二階部分の営業開始日は10月10日)を迎えた、そんな状況でした。それ故に、当初の営業予想は悲観的であったようですが、観光シーズンと重なったことで2倍以上の営業成績を出したそうです。

決して順風満帆なスタートとはいかなかったものの、三代目京都駅は戦後の駅舎として新しい時代を歩んでゆくこととなります。


【参考文献】
『聞き書き 関西の建築 古き良き時代のサムライたち』佐野正一 石田潤一郎
『建築家三代 安井建築設計事務所 継承と発展』佐野正一
『京都駅物語 駅と鉄道130年のあゆみ』荒川清彦
『京都駅開業100年 市民とあゆんで一世紀』京都駅 京都駅開業100年記念事業推進協議会
『開業90周年 京都駅90年の歩み』大阪鉄道管理局
京都における鉄道線路に対する認識の変遷 ー二代目京都駅を境としてー』高島謙一




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