京都停車場 ひっちょのステンショと呼ばれた駅

京都駅の研究内容をまとめています。

タグ:東塩小路村

IMG_20130901_092618


「京都駅の0番ホームは御土居の上に作られた」
そんな話をご年配の方から時々お聞きすることがあります。
自分が京都駅研究を始めた矢先に尋ねられた噂でした。
今はだいぶ聞くことはなくなりましたが、長らくこんなことがまことしやかに囁かれていたのです。

京都市埋蔵文化研究所の資料によると、平成5年11月の京都駅改築工事に伴う緊急調査により『旧1番ホーム(現0番ホーム)西端断面で2mの盛土の下に深さ1m以上の泥土層を確認』とあることから、実際には御土居の外堀(御土居堀)跡に土を埋め整地した上に建てられています。
(ここで注意していただきたいのは「御土居」の中には「堀」は含まれないということ)
また、御土居自体も明治6年の鉄道敷設工事着工に伴い切り崩され、初代京都駅周辺の整地に利用されている為、既に消失しているのです。
また、大正3年に竣工した二代目京都駅を建設する際に駅周辺を整地する為に使用されたのは、鴨川と桂川の土や砂でした。京都駅のホーム構造は大正時代から現在にかけてほぼ大きな改良は加えられていません。その為、現在の0番ホームは御土居を活用して建設されたものでもないのです。

なぜこのような噂が出来たのか、なぜ広まったのか。
御土居研究の第一人者である中村武生氏の寄書「歴史家の案内する京都」によると「二代目京都駅が建設された大正初年、当時まだ残っていた御土居がプラットホームに使用されたから、京都駅の0番ホームは日本一長い」という噂話があったそうです。
同じく中村武生氏の著書「御土居堀ものがたり」詳しく書かれていますが、簡略すると「地域の由緒を伝えていく中で誇張や誤解が生まれ、話が一人歩きした」為とあります。
さて、この噂の大元になったのが、東海道線を敷設するたびに接収を余儀なくされたあの正行院の住職でした。正行院住職が語るに至ったのは当寺所蔵「東塩小路村文書」によるところと考えられています。
ただ史料からだけでなく、正行院や旧東塩小路村に伝えられた当時の人々の思いから、そう語ったのかもしれません。「京都駅の前身、大宮仮駅が出来るまで」でも書いたように、正行院や東塩小路村の人々にとって京都駅と東海道線に対して複雑な感情があったのだろうと伺えます。
それを踏まえて、主たる理由の他にいくつか仮説をあげてみたいと思います。
●村の一部であり、開拓し始めた御土居を有無を言わさず接収されてしまった為。
●御土居を崩し、その際に出た土を初代京都駅の造成に利用した為。
●京都駅が建設された場所が御土居に近かった為。
●御土居が無くなった後も京都駅と東海道線が南北を分断し、周辺の村の人々にとって意識せざるを得ない存在となってしまった為(可視的境界が御土居から京都駅へと代わった)
とこのような個人的な仮説はさておき。
0番ホームの噂が長い間広く語られていたのは、巨大ターミナルの下に史跡があるかもしれないという、ロマンの駆り立てられる話だったからかもしれません。

ただ、京都の内側から巨大な京都駅ビルを見る度、その存在が可視的境界なのではと意識してしまうのは自分だけでしょうか。




【参考文献】
「御土居堀ものがたり」中村武生 京都新聞出版センター
「歴史家の案内する京都」仁木宏、山田邦和編書
「関西鉄道考古学探見」辻良樹 JTBパブリッシング
「御土居ー初めて造られた城壁ー」小檜山一良 京都市埋蔵文化研究所
「京都新停車場」京都日出新聞 大正3年5月7日付
「京都停車場改良工事紀要」西部鉄道管理局

初代京都駅が開業したのは明治10年2月5日のことです。
京都~神戸間開通式典は大変盛大なものだったと記録されていますが、そこに至るまでにかなりの時間を要しました。


まず京都~大阪間の測量開始の指令が明治4年4月4日に下り、同年6月16日に開始されました(この区間は明治3年の6月に佐藤政養により、既に経路と地形の調査が行われ「東海道筋鉄道巡覧書」で報告されています)
しかしこの指令が下り、開始されるまでの数か月間にあった出来事についてはあまり知られていません。
鉄道敷設と京都駅建設地に選ばれたのは七条通より南、東塩小路村でした。
何故「東塩小路村」だったのか、明確に記載をしている史料はありません。
仮説を立てる上での典拠としては『鉄道寮事務簿』巻2、明治4年10月に京都出張所から鉄道寮に提出された報告書に記載された「西京八条通ノ東手西東洞院間同所ステーション」の記載と『鉄道別録』巻之壱より「大阪ヨリ西京ヘノ線路ハ注意シテ撰ミタルモノト見ヘ数多ノ川々アレトモ線路ニ掛ル箇所ハ甚タ適ニ有之真実ニ心ヲ用ヒタル義ト被存候但村々ニ掛ル所ニテハ少シク改正ヲ加ヘナハ線路ヲ妨ケスシテ若干ノ家屋ヲ不取払い様相成候」があります。
また当時、鉄道は買収交渉のしやすさや建設コスト等を考え、市街地の外れに敷設されるのがセオリーでした。町屋はあれど農地が広がっている為に接収・開発しやすい、京都の街の南端だが竹田街道や烏丸通や七条通に接している為に利便性が高く、後に大津まで延長する際にこの土地が最適であった為(今後、大津までのルートを極力直線に出来るように)、等様々な条件が揃った東塩小路村に白羽の矢が立ったと考えています。
ちなみに、ここで東塩小路村を京都の町の外れと表記しないのは、近世の東塩小路村は洛中と同じ町屋の造りで尚且つ町並み(街道沿いに百姓の住居や店が連なる町化)も変わらなかった為です。
さて、その東塩小路村。政府や京都府からは一切事前協議が行われず、同年5月6日に用地検分の為に英国人技師らが東洞院通の御土居へ登っていることによって発覚します。明治5年10月19日付の『京都新報』に「京都ヨリ越前敦賀エノ鉄道線測量ノタメ近日其掛リノ官負及ヒ外国人等入京アリテ東洞院塩小路村ヨリ宇治郡山科辺ノ測量ヲ始メラルル風説アリ」という記事がありました。情報としての旬は逃しているものの、東塩小路村で起こった出来事が京都中に広まっていることが伺えます。


もちろん、村は大騒ぎとなりました。江戸時代には幕府の管理下であった御土居も明治になると農業振興の為自由に開拓出来るようになっており、東塩小路村の人々ももれなく農地として開拓を始めていたからです。村の死活問題でもあり、東塩小路村は周辺村々と共に詳しい事情や開拓費の保証を京都府へ打診しますが、却下されてしまいます。
また同年6月16日、測量開始と共に京都府から鉄道の利益を府民に啓発し、測量への協力、測量杭の抜き取り・打ち込みなどの行為を厳禁する旨を通達されます。
「鉄道忌避伝説の謎」では、鉄道敷設にあたり各地で反対運動は無かったと記載されていますが、東塩小路村では反対運動を起こす間も無く京都府から先手を打たれたと考えても良いかと思います。また上記のように、住民の納得いく形で接収が行われたとは考え難いでしょう。

このように測量が開始され民家の移転や用地の接収が着々を行われてはいくものの、鉄道建設が着工したのは明治6年12月26日のことでした。
測量から着工までに時間が空いたのは、当時の政府に資金が無かったこと、また国内情勢が不安定であったからです。資金面に関しては、元々明治4年に設立された関西鉄道会社から建設資金の供給を受ける計画でしたが、同社が資金を集められず解散、改めて政府の資金により敷設することになった為とあります。

sketch-1509113024509
明治10年5月刻成の古地図には大宮仮駅の設置されていたとされる箇所に横線が入れられている。
 
明治9年9月5日、ようやく大宮通三哲東入るに仮駅を設置し京都~大阪間の営業を開始。
大宮仮駅の近く粟島堂の例月市もあってか、仮開業の時点でも周辺は店が並び、人力車や人々が行き交うなど大変な賑わいを見せていたようです。
この大宮仮駅は翌年の初代京都駅開業と共に役目を終えます。この駅に関する資料は殆ど残ってはおらず、駅舎はあったのか等、多くは分かっていません。

【参考文献】
「御土居堀ものがたり」中村武生 京都新聞出版センター
「京都府行政文書」京都府立総合資料館
「史料 京都の歴史 第12巻 下京区」平凡社
「日本国有鉄道百年史」鉄道省
「鉄道寮事務簿」
「鉄道別録」
「鉄道忌避伝説の謎」青木栄一 吉川弘文館
「『洛中絵図』に「町屋」と記された洛中農村の百姓居宅と, 江戸時代の同地史料にみる町屋の意味」丸山俊明
「洛中農村の居住形態に関する復原的考察 下山城京廻東塩小路村における「構」集落の空間構造」伊藤裕久

【参考資料】 
「京都新報 明治5年10月19日付」
「新京都細絵図」

このページのトップヘ