「京都駅の0番ホームは御土居の上に作られた」
そんな話をご年配の方から時々お聞きすることがあります。
自分が京都駅研究を始めた矢先に尋ねられた噂でした。
今はだいぶ聞くことはなくなりましたが、長らくこんなことがまことしやかに囁かれていたのです。
京都市埋蔵文化研究所の資料によると、平成5年11月の京都駅改築工事に伴う緊急調査により『旧1番ホーム(現0番ホーム)西端断面で2mの盛土の下に深さ1m以上の泥土層を確認』とあることから、実際には御土居の外堀(御土居堀)跡に土を埋め整地した上に建てられています。
(ここで注意していただきたいのは「御土居」の中には「堀」は含まれないということ)
また、御土居自体も明治6年の鉄道敷設工事着工に伴い切り崩され、初代京都駅周辺の整地に利用されている為、既に消失しているのです。
また、大正3年に竣工した二代目京都駅を建設する際に駅周辺を整地する為に使用されたのは、鴨川と桂川の土や砂でした。京都駅のホーム構造は大正時代から現在にかけてほぼ大きな改良は加えられていません。その為、現在の0番ホームは御土居を活用して建設されたものでもないのです。
なぜこのような噂が出来たのか、なぜ広まったのか。
御土居研究の第一人者である中村武生氏の寄書「歴史家の案内する京都」によると「二代目京都駅が建設された大正初年、当時まだ残っていた御土居がプラットホームに使用されたから、京都駅の0番ホームは日本一長い」という噂話があったそうです。
同じく中村武生氏の著書「御土居堀ものがたり」詳しく書かれていますが、簡略すると「地域の由緒を伝えていく中で誇張や誤解が生まれ、話が一人歩きした」為とあります。
さて、この噂の大元になったのが、東海道線を敷設するたびに接収を余儀なくされたあの正行院の住職でした。正行院住職が語るに至ったのは当寺所蔵「東塩小路村文書」によるところと考えられています。
ただ史料からだけでなく、正行院や旧東塩小路村に伝えられた当時の人々の思いから、そう語ったのかもしれません。「京都駅の前身、大宮仮駅が出来るまで」でも書いたように、正行院や東塩小路村の人々にとって京都駅と東海道線に対して複雑な感情があったのだろうと伺えます。
それを踏まえて、主たる理由の他にいくつか仮説をあげてみたいと思います。
●村の一部であり、開拓し始めた御土居を有無を言わさず接収されてしまった為。
●御土居を崩し、その際に出た土を初代京都駅の造成に利用した為。
●京都駅が建設された場所が御土居に近かった為。
●御土居が無くなった後も京都駅と東海道線が南北を分断し、周辺の村の人々にとって意識せざるを得ない存在となってしまった為(可視的境界が御土居から京都駅へと代わった)
とこのような個人的な仮説はさておき。
0番ホームの噂が長い間広く語られていたのは、巨大ターミナルの下に史跡があるかもしれないという、ロマンの駆り立てられる話だったからかもしれません。
ただ、京都の内側から巨大な京都駅ビルを見る度、その存在が可視的境界なのではと意識してしまうのは自分だけでしょうか。
【参考文献】
「御土居堀ものがたり」中村武生 京都新聞出版センター
「歴史家の案内する京都」仁木宏、山田邦和編書
「関西鉄道考古学探見」辻良樹 JTBパブリッシング
「御土居ー初めて造られた城壁ー」小檜山一良 京都市埋蔵文化研究所
「京都新停車場」京都日出新聞 大正3年5月7日付
「京都停車場改良工事紀要」西部鉄道管理局