京都停車場 ひっちょのステンショと呼ばれた駅

京都駅の研究内容をまとめています。

タグ:正行院

明治43年に利用客増加に伴う京都駅改築計画が決定しました。そんな折に明治天皇が崩御し、大正御大典の為に計画変更を余儀なくされ、急遽抜擢された渡辺節により二代目京都駅が設計されます。
そして、東海道線も輸送量の増加による貨物駅分離を含めての新線が敷設されることになりました。
古地図 大正2年7月
黒で表示されているのが旧線、赤が新線

十数年前には多く見られた旧東海道線廃線跡。残念ながら現在の四代目京都駅が建設される際に周辺が再開発され、姿を消しつつあります。

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古地図や文献を元に旧東海道線沿線を現在の地図に起こした(クリックで拡大)

『まんぽ湯』
塩小路通に面して建っていた木造二階建ての銭湯。
「まんぽ」とはトンネルのような構造物を示す方言の一つで、京都では「まんぷ」とも言います。
銭湯の名前の由来は、すぐ南側を走る東海道線が高倉跨線橋(まんぽ)をくぐることから。「京都市明細図」から昭和26年ごろまでの存在が確認出来ました。

『正行院』
別名・猿寺とも。また、わがた(輪型)地蔵は江戸時代、竹田街道に敷かれていた車石に掘られていることからそう呼ばれています。
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正行院は旧東塩小路村にあり、東海道線敷設・複線化の度に境内を接収された不運の寺。
現在でも旧線跡は正行院北側(写真左)に道として残されています。
旧東海道線時代には境内へ参拝する為に線路を渡らなけれはならなかった、という話が残されています。

『初代京都駅』
現在の京都駅前、タクシー専用ロータリーから烏丸通を正面に見る所までが駅舎本屋のあった場所となります。
二代目京都駅前
提供:森安正氏

現在では全く面影もありませんが、二代目京都駅竣工当時は駅跡を利用して植樹をしています(絵葉書右)

『御影堂引込線』
明治12年から28年まで行われた、東本願寺御影堂再建の為に敷設された引込線です。
終点の資材置き場は現在のヨドバシカメラの建つ土地に当たります。遺構等は残されていません。

『初代京都駅転車台遺跡』
平成8年、アパホテル京都駅前の新築工事に伴って行われた発掘調査により発見された初代京都駅の転車台です。
転車台の付属設備は全て取り除かれてはいるものの、漆喰で固めた10段のイギリス積みと御影石の土台が確認出来ました。直径14m、高さは1.6mで明治期の車輌に合わせた大きさとなっています。
製造されたのはおそらく明治30年の京都駅増築工事時と考えられます。

『旧東海道線盛土跡』
現在、旧東海道線が敷設されていた場所にはオムロン本社(写真左)が建っています。
旧東海道線築提跡
築堤を今日まで利用している為か、南側(写真右)との高低差が生まれています。

『お地蔵さん』
大正三年建立地蔵 脇道
東海道線が新線に切り換わった直後に建てられたお地蔵様
このお地蔵さんより北側のアパホテル京都駅堀川通(写真右)が旧東海道線跡地に当たります。

『異人官舎跡と呼ばれた場所』
油小路三哲にあったとされる鉄道官舎にはお雇い外国人が住まい、当時は異人官舎と呼ばれていたそうです。

『大宮駅』
京都駅開業前に仮駅として五か月間の短い間営業をしていた幻の駅です。
『志水町文書』によると「三哲大宮東入処」に建てられていました。資料が非常に少なく、どのような駅舎であったかも分かっていません。

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尋常小学校の北側に倉庫用地が確認出来るがこれも旧線跡地
(京都市明細図より) 
旧東海道線廃止後の大正9年に梅逕尋常小学校(現・梅逕中学校)が校地として旧線跡地を購入し、昭和26年以降に尋常小学校北側へ敷地を更に拡大しています。
梅逕中学塀
現在の梅逕中学校の敷地北側がその部分に当たり、学校を囲む塀の造りや色合いに名残りを見ることが出来ます。

また、明治30年4月27日には現在の山陰線の前身であった京都鉄道の大宮駅がこの付近にて開業、11月16日に大宮~京都間が開通しました。
この年の5月、京都駅乗り入れについて鉄道局から京都駅発着列車の本数を制限されます。そこでとった策として大宮駅を仮駅としてここへ置き、京都鉄道の京都の起点としたのです。大宮駅は翌年に常設駅として認可が下りました。明治32年に京都駅乗り入れが可能となり7月31日に大宮駅を閉鎖しますが、後の明治38年1月15日に旅客扱いの為に再開されます。しかし明治40年8月1日、昨年に公布された鉄道国有法により、京都鉄道沿線は私鉄としての運命を終えました。
その後、明治44年に大宮駅は廃止されてしまいます。
京都鉄道大宮駅(御大典記念付録)
ただ古地図を当たってみると、大正2年にはまだ記載されていることから、駅舎自体は残されていた可能性があります。

『大宮跨線橋(高架橋)下の旧東海道線跡』
大宮跨線橋下
旧線は梅逕中学校のすぐ西側にある大宮跨線橋をくぐり梅小路公園へ至る道として残されています。
面白いのは、昭和7年に竣工した大宮跨線橋が丁度旧線跡地部分だけを開口している所。大正3年の新線敷設の際には跨線橋が架設されましたが、旧線沿いに交通の流れがあった為に残されたのでしょうか。

『梅小路仮駅』
梅小路駅が貨物駅として正式に開業したのは、二代目京都駅よりも早く大正2年6月21日のことです。
ただ、それよりも早い時期に仮駅として運用されていました。
明治43年11月5日に仮信号場として開設し、翌年2月25日に知恩院と両本願寺遠忌の為に40~60万人の入洛が見込まれ仮駅が設置されます。同年5月5日に連絡所へ降格しますが、この頃には既に京都駅からの分離駅として既に計画されていたことが分かります。
梅小路駅(大遠忌)
提供:森安正氏
七百年遠忌と書かれていることから、知恩院から発行された絵葉書と考えられます。
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上は西本願寺が発行した大遠忌の為の地図
 
 
また京都駅開業時に収容線が二線ある煉瓦造の長方形機関車庫を三哲通西洞院東に設置し、京都機関庫と呼びました。梅小路機関区の前身です。
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精撰増補京都詳覧圖(明治11年)
この地図には初代京都駅の西側に京都機関庫と思われる建築物が見られます。


また、古地図と現在の地図を照らし合わせてみると、この仮駅傍の軌条は旧線の一部がまだ使用されているようです。
大正2年から長く梅小路駅として呼ばれてきた貨物駅でしたが平成23年に「京都貨物駅」と改称し、残念ながら消えた駅名となってしまいました。


【参考文献】
「京都停車場改良工事計画圖」西部鉄道管理局
「新鉄道廃線跡を歩く4 近畿・中国編」今尾恵介 JTBパブリッシング
「東本願寺の至宝展 両堂再建の歴史」真宗大谷派
「日本国有鉄道百年史」鉄道省
「安寧校百年史 梅逕小学校史併記」安寧校創立百年記念事業実行会
「史料 京都の歴史 第12巻 下京区」平凡社
「京ところどころ」岩井武俊 金尾文淵堂
「鉄道と煉瓦 その歴史とデザイン」小野田滋 鹿島出版会
「平成8年度 京都市埋蔵文化研究所調査概要」財団法人京都市埋蔵文化研究所
「梅小路90年史」西日本旅客鉄道株式会社

【参考】
「京都市明細図」京都府立総合資料館
「京都市街名勝案内図」速康散正本家
「京都市街全図(複製)」大阪毎日新聞社
「精撰増補京都詳覧圖」国際日本文化研究センター















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「京都駅の0番ホームは御土居の上に作られた」
そんな話をご年配の方から時々お聞きすることがあります。
自分が京都駅研究を始めた矢先に尋ねられた噂でした。
今はだいぶ聞くことはなくなりましたが、長らくこんなことがまことしやかに囁かれていたのです。

京都市埋蔵文化研究所の資料によると、平成5年11月の京都駅改築工事に伴う緊急調査により『旧1番ホーム(現0番ホーム)西端断面で2mの盛土の下に深さ1m以上の泥土層を確認』とあることから、実際には御土居の外堀(御土居堀)跡に土を埋め整地した上に建てられています。
(ここで注意していただきたいのは「御土居」の中には「堀」は含まれないということ)
また、御土居自体も明治6年の鉄道敷設工事着工に伴い切り崩され、初代京都駅周辺の整地に利用されている為、既に消失しているのです。
また、大正3年に竣工した二代目京都駅を建設する際に駅周辺を整地する為に使用されたのは、鴨川と桂川の土や砂でした。京都駅のホーム構造は大正時代から現在にかけてほぼ大きな改良は加えられていません。その為、現在の0番ホームは御土居を活用して建設されたものでもないのです。

なぜこのような噂が出来たのか、なぜ広まったのか。
御土居研究の第一人者である中村武生氏の寄書「歴史家の案内する京都」によると「二代目京都駅が建設された大正初年、当時まだ残っていた御土居がプラットホームに使用されたから、京都駅の0番ホームは日本一長い」という噂話があったそうです。
同じく中村武生氏の著書「御土居堀ものがたり」詳しく書かれていますが、簡略すると「地域の由緒を伝えていく中で誇張や誤解が生まれ、話が一人歩きした」為とあります。
さて、この噂の大元になったのが、東海道線を敷設するたびに接収を余儀なくされたあの正行院の住職でした。正行院住職が語るに至ったのは当寺所蔵「東塩小路村文書」によるところと考えられています。
ただ史料からだけでなく、正行院や旧東塩小路村に伝えられた当時の人々の思いから、そう語ったのかもしれません。「京都駅の前身、大宮仮駅が出来るまで」でも書いたように、正行院や東塩小路村の人々にとって京都駅と東海道線に対して複雑な感情があったのだろうと伺えます。
それを踏まえて、主たる理由の他にいくつか仮説をあげてみたいと思います。
●村の一部であり、開拓し始めた御土居を有無を言わさず接収されてしまった為。
●御土居を崩し、その際に出た土を初代京都駅の造成に利用した為。
●京都駅が建設された場所が御土居に近かった為。
●御土居が無くなった後も京都駅と東海道線が南北を分断し、周辺の村の人々にとって意識せざるを得ない存在となってしまった為(可視的境界が御土居から京都駅へと代わった)
とこのような個人的な仮説はさておき。
0番ホームの噂が長い間広く語られていたのは、巨大ターミナルの下に史跡があるかもしれないという、ロマンの駆り立てられる話だったからかもしれません。

ただ、京都の内側から巨大な京都駅ビルを見る度、その存在が可視的境界なのではと意識してしまうのは自分だけでしょうか。




【参考文献】
「御土居堀ものがたり」中村武生 京都新聞出版センター
「歴史家の案内する京都」仁木宏、山田邦和編書
「関西鉄道考古学探見」辻良樹 JTBパブリッシング
「御土居ー初めて造られた城壁ー」小檜山一良 京都市埋蔵文化研究所
「京都新停車場」京都日出新聞 大正3年5月7日付
「京都停車場改良工事紀要」西部鉄道管理局

京都駅の改築工事が決定し、永久建築・煉瓦造り・高架式にする計画が立てられました。
しかしその矢先である明治45年、明治天皇が崩御されます。
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桃山御陵に敷設された大喪用鉄道。当時の鉄道で日本一短かったと言える。

この為、大正天皇の即位式に間に合うよう、耐久年数10年・木造・平地式・工期1年・予算30万円(現在の約3000万円)へと計画を変更せざるを得なくなりました。また、捌き切れなくなった旅客と貨物を分離し、大変狭くなった駅前の対策として初代京都駅から約140m南に設定し広場を確保。
これにより東海道線も新線を敷設する為、梅逕中学校や正行院の土地が鉄道用地として売却され高瀬川も再度付け替え工事が行われることとなりました。


ところで、二代目京都駅の設計者として白羽の矢が立ったのは誰であったのでしょうか。
当時の鉄道院は人材が不足していました。その中で急遽、設計者として選ばれたのが大阪駅の改築工事に携わっていた弱冠28歳の渡辺節です。後に大阪ビルディング本店や丸物百貨店を設計したことでも有名です。
さて、大阪駅の改築は天皇崩御・大正天皇御大典により一時中断し、京都駅の改良工事が急がれることとなりました。


【参考文献】
「安寧校百年史 梅逕小学校史併記」安寧校創立百周年記念事業実行会
「建築家 渡辺節」大阪建築士会渡辺節追悼誌実行委員会
「西日本旅客鉄道 京都の歴史と現状」福家央樹 運転協会誌

明治10年2月5日京都~神戸間開通、完成目前の初代京都駅が開業しました。
前日に雪が降り天気が心配されましたが、午前10時頃には回復し太陽の光が出ていたようです。
軒先を雛人形や垂れ幕等で飾り付け、東洞院通から烏丸通にかけての七条は見物人で混雑を極めたとの記述が残るほど、京都の街の人々にとって駅の開業と天皇陛下の行幸は喜ばしいことだったのでしょう。ただ当時の日記を読むと、京都駅の開業よりも天皇陛下が行幸することの方が京都の人々の心にとっては重要だったのではないか、そんな印象を受けます。


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開業式典後の催しで曳かれたと考えられる山車の絵図
 
開業式典には天皇陛下を始め皇族や内閣顧問(三条実美や木戸孝允ら)等が列席し、会場は「停車ノ北前ニ張出ノ仮屋根ヲ設ケ右ノ屋根ヨリ停車ノ廓…日影旗ハ数…各国の国旗ヲ挙ケ正面ニハ鉾ノ御送リヲ掛ケ中央ニ一段ヲ設ケ天井ニ金彫ノ廓アリ此取ニ一ノ椅子アリ菊ノ金紋ヲ両龍挟シ美麗卓絶ナリ是ヲ主上御座間トス…」とあるように、絢爛豪華な装飾の中、午後4時に始まった開業式典は大変盛大であったようです。
そして、翌日の2月6日に一般開業となります。
造成時には御土居を崩した際に出た土を利用し、京都で最初の洋風建築として二階建ての煉瓦造り、切石は愛宕郡一乗寺村の白川石を使用しました。煉瓦は京都府葛野郡の製造所製と考えられます。また、中央の時計は直径約2mの大きさで市中に時を知らせていたそうです。
京都府総合資料館のアーカイブでは、開業直前(『京都慕情』によると撮影時期は明治10年1月頃)の京都駅を見ることが出来ます。
京都北山アーカイブズ/矢野家写真資料 京都駅
駅前には池があり、駅舎左奥に林を確認出来ます。
余談ではありますが、この林は竹田街道ほ東側に存在した御土居ではないかと考えています。
明治9年の地図では、黒い太線で御土居が描かれているのを見ることが出来ました。
明治9年 京都区分一覧之圖
明治9年 京都区分一覧之圖 
 
現在でも話題になっている御土居(0番ホームと御土居)は明治初期に切り崩され、竹田街道より東側の御土居は明治11年に京都〜大津間敷設の為、猿寺正行院の土地が北側が接収されたのと同時期に崩されたのではと考えています。

この初代京都駅の設計者は分かっていませんが、当時の御雇い技師の英国人が設計したと考えられています。
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明治末期の初代京都駅と明治28年に開業した京都電気鉄道(提供:森安正氏)

当時の人々は京都駅のことを「ひっちょのステンショ(所)」と呼んでいました。七条(しちじょう=ひっちょ)通の駅(ステーション=ステン所)ということからですが、当時の京都駅も現在の京都駅も七条通には面していません。
現在の京都駅は塩小路通に面していますが、この塩小路通が京都駅前から本町通まで延長されたのが明治34年のことになります。京都駅開業当時、京都駅に最も近いメインの通りが七条通であった為に、このような呼び名がついたのでしょう。またステンショと呼んでいたのは、まだ英語に馴染みが薄くステーションという発音がし辛かったのではと考えています。

開業後京都駅の利用者数は一日約100人程度。その殆どが皇族や軍関係者でした。


【参考文献】
「日本国有鉄道百年史」鉄道省
「京都府行政文書」京都府立総合資料館
「鉄道と煉瓦 その歴史とデザイン」小野田滋 鹿島出版会
「京都慕情 写真と版画で綴る京の歴史」 京を語る会
「日記(個人蔵)」 著者不明
「開業90年 京都駅90年の歩み」 大阪鉄道管理局

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